「ノータイムポチリ」と「目標と決意」

先日、チームで学ぶマーケティング講座の最終発表&講演会で、小野裕史さんの講演を聞いて、なるほどと思った部分があったので書いてみる。

 

今回の記事には、ちょっとライフハック的な内容もあるかもしれない(ライフハックって言いたいだけ)

 

ちなみに講演の様子はこんな感じだ。

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まず、小野様は「思いついたノリで深く考えずココロのままに、ポチッと何かにエントリーしたり、購入したりしてケツを決めてしまうことを『ノータイムポチリ』と呼んで」いらっしゃるそうだ。

 

詳しくは、小野さんのブログで

【北極マラソン完走記:その1】北極マラソン。始まりは、やっぱり「ノータイムポチリ」から|Keep Challenging

 

 

で、ノータイムポチリをするとこうなるそうだ。

1. ノータイムポチリする(アクションする) → 決断する

2. SNSで決断した目標を他に発信する → 逃げられなくする

3. 全力で目標達成に向けて取り組む

 

このとき、目標は短期的なものと、長期的な目標を立てるべきであるということ、目標の設定はそれを達成するためにも重要であるという事を伺った。

 

これを聞いて、なるほどな〜と思ったし、そこから考える事もあった。

 

確かに、目標に対して全力で向かった際に失敗することもあるだろう。

しかし、同じ様にトライして失敗したとしても、全力でやっている場合と、手を抜いている場合では、そこから得られる経験値は違うだろうと思った。

 

全力でやるためにも、私みたいなだらしないやつは、他人に目標を発信して、本気でやらんと格好悪いで!って思わせた方が、よりいいんだろうなとも思った。

 

そんな事を考えていたら、たまたま読んでいた「1分間コトラー」に、こんな言葉が出てきた。

「決意と目標を区別することだ」と。

 

そこで、ハッ!と気付かされた。

同じ様にノータイムポチリをしたとしても、ただ決意を示すだけと、目標を示すのでは全くやっていることが違うという事を。

 

決意と目標の何が違うのかというと、

「禁煙するぞ」「痩せるぞ」ってのはただの決意表明で、その場限りに終わりやすい。

そこに「いつまでに」「何を」「どうやって」と具体的な数値や方法が入ると、決意は目標に変わる。

そう、この2つは大きく違うのだ。

 

小野さんの様にノータイムポチリをするというのは、自分を動かすにはとてもいい方法だと思う。

ただ、そこで人に発信する際に、決意表明をしては効果が薄れてしまうのだ。

だから、その点に気をつけて、具体的な目標を設定する事で、目標達成の可能性も高くなるだろう。

目標を達成するという成功体験が、自信を生み、新たなゴールへと向かうエネルギーを人に与えるのだと私は思う。

 

せっかく良い事を聞いて、タイミングよくいい事を読んだので、是非シェアしたいと思った。

自分でも是非、やっていきたいと思う。

 

ノータイムポチリ ∩ヾ(・∀・ ) ポチットナ  ☆(((≪*☆*BOMB*☆*≫)))

ブラック研究室という言葉が一般的になりつつある、のか?

脱社畜ブログでも取り上げられてたので、気になった話。

ブラック研究室という闇

http://dennou-kurage.hatenablog.com/entry/2013/07/01/203131

 

良い機会?なので、私もブラック研究室がどんなもんかとか、実情を少し書こうかと思う。 

 

理系からすると、ブラック研究室って言葉や存在はよく聞く(かくいう私もブラック研究室の一員だ…)が、確かに文系の人には馴染みの無い言葉かもしれない。

 

ブラック研究室がどんなのか説明すると、

土日関係なく研究室に拘束される

雑用などいっぱい降り掛かってくる

教授から暴言を吐かれる等の嫌がらせがある

就活?そんなんやらせないよー

なんて感じの研究室だ。

 

酷い話だが、研究室の学生や助手が自殺するなんて話も珍しい話ではないのが実情のようだ。

 

最近聞いた話では、教授がキレて回し蹴りをしたところ、机上の電話の子機にヒットして、子機が吹っ飛びお陀仏になったなんて話もきいたりした笑

うちの研究室では徒弟制度が暗黙の了解で採用?浸透?しており(卒業したけりゃNoとは言えないからね)、早朝から深夜(もしくは早朝まで)まで研究室に拘束される。

 

ブラック研究室に居る人は、正直社会人が羨ましいって人は多いんじゃないだろうか。

学費を払って、奉仕労働のようなこともやってる学生から見ると、例えきつくても給料をもらえるってだけでかなりいい立ち場に見えてしまうだろう(社会人には社会人の辛さがあるというのも頭では理解しているが)。

 

そんな研究室が理系大学には多々存在し、学位を得るためには仕方なくそこに行くしかないという状況が作られている。

 

まあ、研究室なんて、ブラック無糖なのか、砂糖入りブラックなのか、たまにミルクも入るときもあるのかくらいの違いもあれど、どこもブラックっちゃブラックなのだが。

 

確かに、大学としても、教授としても研究成果を出すとなると、それくらいしないといけないって場合もあるし、社会に出る前の準備期間として、厳しい指導をするってのも分かる部分もあるのだ。

 

色々な側面を考慮すると、理系の研究室がブラックにならざるをえない部分があるのも認める。

しかし、本当にそれで良いのだろうか。

世の中がどんどん変わっていく中で、大学というのは恐らく昔からあんまり変化はしてなくて、古い体制が維持されているような気がする。

そうなってくると、中と外の乖離が進んで、大学内から社会へと出ようとする学生が苦労するのではないだろうか。

 

この問題に関して、良い悪いがあるのかわからないし、どうすればいいって提案は自分でも出せてないからこれ以上とやかく言えないのだが、そういう実情があるというのは認知されるべきなんじゃないかと思う。

 

大学の研究室には隈無く生徒が配属されるのが普通だと思うので、今後もブラック研究室はなくならないだろう。

どれだけ不人気でも、行きたい人が居なくても、そこに入らざるを得ない人がいるのだから。

 

どう改善されるか分からないけど、実情の広報は続けるべきだろう。

大学生の人脈ってなんなんだ

今日も大学生あるあるな記事になります。

意識の高い学生()によくありがちなのが、人脈を広げる!とか、俺の人脈はどうこうみたいな話。

まあ、実際問題よく聞く話です。

私も昔は人脈作り、とか考えてた時期もありました。

でも、大学生の人脈ってなんなのよって思ってしまうのです。

(別に人脈作りとかを否定するためにこの記事を書くのではないので、悪しからず。)

 

学生団体に入ったりして色んな活動をしてると、大学生通しの繋がりだけじゃなくて、多くの社会人の人との繋がりも出てくる。

それを多くの大学生は自分の人脈と呼ぶ。

しかし、それは本当に人脈なのだろうか。

私は、それは生きた脈なのか?と思ってしまう訳だ。

 

私自身も学生団体みたいな活動で、多くの学生、社会人の人にお会いする事が出来て、多くの繋がりを作らせていただいた。

これ自体はとても貴重なもんなんだと思う。

実際、人が生きていくうえで、人と人の繋がりってのはとても重要だと思うからだ。

 

でも、だからといって大学生の時に頑張って人脈を作るってのも、変なんじゃないかって思う。

人脈を広げる事が目的になってしまった場合、その人は結局その人脈からなんも得られないんじゃないだろうか。

ずっと、ずっと、広げ続けることがその人の使命になってしまうんじゃないかって。

 

 

私は、若いうちに多くの人、大人に会う事ってのを、人脈を作ることを目的にするべきじゃないと思っている。

大学生のうちに多くの大人に会うってのは、恐らく色々な人を見て、ロールモデルになってもらって、自分の中に、その人の生き方をストックしておくことなんだと思う。

 

 色んな生き方、考え方を自分の中に貯めて、それを自分のデータにして自身の将来を選択していくってことなんじゃないだろうか。

自分より少しでも長く生きた人から、少しでも学ばせてもらおうってのが、色んな人に会う事の意味をより有為にしてくれるんじゃないかと思う。

 

色々な人から学ばせてもらって、将来その人に何か恩返し出来た時に、それが本当の意味で「脈」になるんじゃなかろうか。

 

だから、大学生という立ち場で「人脈」って言葉を使ってしまうのは、私には少し違和感がある。

 

別に悪い訳じゃないんだけど、自分はそう考えているってだけ。

 

この考え方は、社会人の人から見るとどうなんだろう。

特に大学生活を意識高く過ごした人からみると、どういう風に捉えられるのかを知りたいです。