どこにもない「安定」を求めて

大学生の就職活動の話題になると、大体安定がどうのこうのって話が出てくる。

でも、そろそろ幻のような「安定」ってものを追い求めるのはやめないか?って話をしよう。

そういう話をして、自分に鞭を打とうと思う(笑)

 

日本人は常々、つちのこ然り、徳川の埋蔵金然り、幻を追い求めるのが好きだ(と勝手に思っている)。

そして今の世の中では、働く上での「安定」ってものも幻になってるんじゃないだろうか。

 

いつなんどき、どんなに大きな企業であろうと傾く危険性はあると思う。

そういう傾向は今後、ますます加速するんじゃないかとも思う。

実際問題、自分たちが生きてきた時代を遡っても、世の中の変化ってのはどんどん激しくなっているように感じるし、それが止む気配もない。

そんな世界じゃ、終身雇用なんて言ってられないんじゃないのだろうか。

もうどこにも、絶対安心出来る領域なんて無くなってしまったのかもしれない。

 

それじゃあどうするのか?

そんなの答えなんてだしようがないのだけども、やっぱり自分自身で生きていける力を、武器を持たないことには仕方が無い。

企業の名前なんて、武器にし続けるには少々物足りないように感じる。

 

では武器ってどんなものだろう。

技術、体力、知識、思考力、会話力、表現力、まあ色々とある。

でも、自分だけの独自の武器ってのを持つのはなかなか難しい。

ただ、人と同じ武器だとしても、その威力、切れ味を高めることは出来るのだろう。

現状では、私の武器はどれも使い物になりそうにないけども笑

 

難しい世の中に生まれてしまったことを恨むのは無駄だから、こうなったらやるしかない。

自分たち若い世代が、新たなキャリアの築き方みたいなものを試行錯誤して作っていくしかないのかもしれない。

常に若者は開拓者になる必要性に迫られているのかもしれない。

そのためには、遠い未来は難しいとしても、数年先にどうしていたいかというビジョンを持っておく事は、万人にとって重要なんだと思う。

この変化が激しい時代に、将来のビジョンを持てとか、アホかって話でもあるけど、そうするしかないんじゃないだろうか。

世の中の変化は仕方が無い。だから、その変化に対応して、如何に自分が変わっていけるかが必要になるだけだ(だけって、それが難しいんだろうけども)。

 

頭が痛い事ばかりだけども、やるしかないんだと思う。

何もせずに、何も考えずに、置いてかれるのだけは勘弁だ。

「何者」。何者にもなれていない者のつぶやき。

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朝井リョウの「何者」を読んだ。

刺激的な内容だったので、それを元に感じたことを書きたくなった。

(ネタバレしてる部分もあるかも知れないので、その辺はご容赦願いたい)

 

この作品は、現代の就活生、というかSNSを使う人たちの表裏を上手く書いた内容だったと思う。

就活やSNSというものを通して、自分ではない何者かになろうとする登場人物達にはとても共感出来るし、多くの人が当てはまる要素を持っているんではないだろうか。

まるで何人もの、何種類もの自分が登場人物になっているような感じ笑

 

記憶に残る言葉(ネタバレ防止のため、ニュアンスで書くけど)は、

・就活の辛さは、たいしたもののない自分をたいしたものであるように見せること

・就職して会社の肩書きをもらったところで、自分は何者にもなれない

・10%、20%の完成度でも、表現しない事には誰も見てくれないってこと

・格好わるくてもがむしゃらにやるしか理想の自分に近づく方法はない

とかだろうか。

 

 

私もこの本の登場人物のようにSNSやこのブログでも意識高い系()の発言は多々している。

痛いと分かりながらも、そうすることによって自分ではない何者かになりたがっているのだろうと、改めて感じさせられた。

自分が未熟なことを認めきれずに、自身の劣っている部分を出来るだけ隠したくて、将来の理想像に全く近づけていないこと、色々やってみてるけど実は薄っぺらい人間だってこと、そんな色んな負の思考を意識高い発言によって覆い隠そうとしているんだと。

 

自身の就活を考えても、未熟さ、弱さを受け止めきれず、自分を語ろうとするから変な事になるんだろうな。

そして現状の就活というシステムに否定的なのは、否定する事で大多数とは自分は違うんだ、特別な感性を持っている側の人間なんだってことアピールしてるんだと思う。

 

「俺は他の大学生とは違う!こんなにも色々なことをやってきた。考えてきた。だから自分は特別な人間だ、他の奴よりも価値がある」って。

 

ホンマ、めっちゃちっさい奴やなって泣けてくる。

 

泣けてくるけど、虚勢はってやってくしかないって面もある。

そうしないと何かが壊れてしまうのかもしれない。

 今まで形成してきた自分の中の何かが。

多分壊れてしまっても本当は問題がなくて、むしろ一度ぶっ壊れてくれた方がいいんじゃないかって思ったりもするんだけども。

 

自分が抱く理想像に近づくために、価値があるであろう本物になりたくて。

でも、今の自分は全然そうはなれてなくて、むしろ周りより劣ってる、ダメなんじゃないかって気付いてしまって。

理想と現実の乖離がどんどん進んでいくにつれて、意識高い自分を見せるしかなくなっていってしまった。

今までの自分って、そういうものだったのかも知れない。

 

いや、全てがそうやったとは思いたくないけど。

 どんな自分であっても、それが不十分な状態であっても、なんとか形にして、表現する事でしか、人に評価してもらうことは出来ないのだから。

考えているだけ、自身の中に抱いているだけじゃ、一生評価なんてしてもらえない。

悪い評価だろうと良い評価だろうと、してもらおうとすれば一度自分の外に出さないといけない。

だから、今後も自分を表現し続けるし、それに意見してくれる人の言葉ってのは大事にして参考にしたいと思う。

 

 

いつも通り、バラバラな内容になってしまって、どうオチをつければいいか分からなくなってしまったのだけども…笑

何者でもない、自分になるために、リアルでもネットでも、格好わるくてもがむしゃらに自分を表現していくしかないのかもしれないな。

「やりがい」を自ら作り出す方法

研究室に配属されて4ヶ月が経とうとしている。

元々興味のあった半導体という分野からはかけ離れた無線通信という分野を研究する事になった。

研究室生活がスタートする前は、そんな所で研究に対してモチベーションを維持出来るのか、そもそもやる気を出す事が出来るのかと不安になった。

 

しかし不思議な事に、始まってみると意外とやる気ってのは湧いてくるもので、改めてその理由を考えてみた。

多分これが分かれば今後、仕事をやっていく上でも、というか何をする上でも参考になると思うので、まとめておこうと思う。

 

ちなみに、タイトルにある「やりがい」ってのは、ここでは自身から感じられるやる気ってことにさせてもらう。

 

モチベーションを維持出来る原因となっている要因はいくつかあるのだろうが、いくつか羅列してみる。

 

全く知らないといってもいい分野ゆえに、勉強すれば勉強する程、知る事が多く、その刺激が面白いということ。

研究という分野でPDCAを意識する事で、普段生活している以上に工夫する面白みが得られるということ。

切磋琢磨しあえる同期、尊敬出来る先輩と先生という人的要因。

自分の未熟さを実感することで、足りない部分を補いたいという想い。

未熟な部分だけでなく、得意な部分を少しでも伸ばしたいという想い。

そして、それらの部分が改善された先にある目標となる姿、将来像に向かって日々少しでも前進しているという実感。

 

 

上2つの項目から連想する事は、知識的欲求というのだろうか。

新たな事を知りたいとか、知る面白みってのも、人によって強い弱いはあるだろうけど、そこを意識する事で、仕事にしてもなんにしても楽しめる場面というのは増えるのではないだろうか。

 

他の項目を見てみると、残りは成長への欲求だろうか。

元々負けず嫌いな部分はあったろうから、切磋琢磨しあえる同期に恵まれたというのはラッキーだっただろう。

これはどこに行っても出会えるものかどうかは分からないが、そうでなかったとしても、人の長所を見て、それに勝ちたい、超えたいと思う事によって、モチベーションは維持出来る。

 

自分の目標があってこそなんだろうけども、今やっていることと将来像、理想像が直結していなくても、やっている事柄から如何に理想像につながる要素を抽出出来るかが大きいと感じる。

今の自分の未熟さを認めながら、如何にして理想像に近づくか、努力するか。

そして、どうやればその理想像に近づいているか実感出来るようにするかで、得られる満足感も違うのではないだろうか。

 

 

どんな状況にあってもやりがいを得ようとすると、自分がどんな欲求を求めているかを理解し、それを得られるように考えて行動する、工夫する事が大切なんだろうと感じる今日この頃でした。